唱和42年07月30日 朝の御理解
今朝から私はこういうお夢を頂いておった。夏の御大祭のお準備をしておるという感じです。そのお鏡つきが、皆であっておるんですけれども、お餅つきが終わったからと思うて、私が行ってみたところが、お鏡餅を取らずに、小餅ばかりを全部取っておる。あらーまだ一臼も残っていないのかと言うたら、まあうっかりして、皆小餅ばかり取っておりますという、まあお夢であった。どういうふうに頂いてよかろうか。
成程、私どもの願いというものが、願い通りになるということだけが、おかげではありません。もう場合によると言うものじゃなくても、ほとんどが本当のおかげというものは、右と願えば左、左と願えば右。これゃ本当のおかげというものは、もう絶対そうなんです。ね。いわばエーまあそう一概に言えませんけれども、目先、目先の様々な、言うならば小さい問題と申しましょうかね。そういう様なことの場合は成就致します。おかげのお繰り合せを頂きます。
けれども、本当に神様がおかげを受けてくれよと仰るほどのおかげ、私どもが頂くならば、そこを頂かなければならないという、いうようなおかげ。そういうおかげというものはですね、もう先ず絶対と言うてよいほど、右と願えば左、左と願えば右ですね。けれどもね。そういうような信心、そういうような現れがある時にはです、もう必ず、心に喜びと元気な心があります。同時にですねハハァそういうご都合であったばいのと、その後にですハァやっぱりそれがおかげであった。
分かるような事柄に必ずおかげになっております。又例えて言うならば、あのラムネを飲みます。今頃ラムネというものは、あんまりないですけどもこう飲みます。中に玉が入っておって、こうみんな飲みましょう。そすとバカ、バカ、バカと一辺に出ませんからね玉が引っ掛る。そして玉が引っ掛るから、あれは噎んで済むのですよね。所謂、一口、二口ずつ入ると玉がガチャッとこう詰るような仕掛けになっておるわけなんです。
所謂、もうそのラムネ一本飲む間にも、何回も何回も引っ掛る。引っ掛りがあるのです。けどもその引っ掛るという事がおかげだ。ラムネを飲んだ後にやはり、ゲッスというその快い、そのゲップがでるようにですね、それこそ胸がすくような感じがですね。様々な、もう一つのことのお願いの場合でも、そこに引っ掛かり、ここに引っ掛かりしていきますけども、その後が丁度、胸のつかえが下りていくようにですハァ神様のお働きちゃ間違いがないんだなと、いうことを感じさせて頂くようなものが必ずあります。
皆さんの例えば願いごとがですね、右と願えば左、左と願えば右というように、ただなっとるだけで、心に信心の喜びも育っていかなければ、それこそゲップが出るような、心良さを感じれないようなであったら、もうそれは駄目です。駄目ですというか、もう本当に大改まりに改まらなければいけない時です。
昨日はエー、敬神会の例会でございましたが、もういつものことでございますけれども、もう本当にもう、一から十まで信心の共励会をなさって、時間の経つのが惜しいというように、昨日はたくさん、まあ全員の研修、研修会の人達が集まっておられました。一人一人その信心の体験発表があっておりましたがです、本当にあの信心の稽古というものは成程、いくら年を取っても、このように信心の稽古をしていかなければならんものだな。というたような感じの共励が続けられておりました。
私も一口、お話させて頂いたんですけれども、とにかくです自分の心の中に、喜びもない心で。自分の心の中に有難いも勿体ないもないような心で、いかに神様に願っても、縋っても、それはおかげにはならんて。というてほんなら、私方の心にいつも、そんならその喜びの心があるというわけじゃないのですけれどもハァ神様、こういう心でお願いを致しましても、とても神様はお届け下さいますと思います。思いますけれども、どうぞ私の心の上にお繰り合せを下さいませ。私の心の上に喜びを、または勿体ないという心を与えて下さいませという祈りを持ち御詫びをさせて頂いてから願わなければいけない。
心に浅ましいものを持っておりながら、心の中に汚い心の中、その中から生まれて出てくる祈りを神様が受けてくれる筈がないじゃないかといったような、まあ御理解を頂きましたがですね。さあもう余すところ御大祭も、もう今月終わりますと、後十五日ということになりますね。十六日には愈々御大祭。様々な話し合いがでける。様々な、まあ或いは、ある人の分担、この人の持場といったようなことだけは大体でけた。
昨日は、敬神会の方達が全部、夏の御大祭のお供え物のことについてから、お話し合いが最後にあったわけ。私は最後に居りませんでしたけれども、お金が集められまして、それをまあお供え物を買って頂きたいという、所謂そのお届けがあった。まあ言うならそこんところは、まあ言うなら準備はでけた。ところがさ御大祭というものがですね。お供えの準備はでけた。用意万端あれは誰がするこれは誰がすると。言ったようなことを手落ちなくでけたと言うだけで、まあ御大祭がと、いうものは良いものであろうか。成程それだけのことが出来ておれば、立派な御大祭は形の上においては、出けるでしょう。
夏の御大祭といやもう、いよいよお互いの持っておる様々な、願わなければならないその祈願、その祈念が成就することのために、お互い一つ汗水を流して、その当日は、いわば願い。大祈願の御大祭がです、まあ奉仕されるようにと、言うのが夏の御大祭のまあ言うなら特徴なのです。そのことは、いつも私が申しておりますように、桂先生のご信心につながる者の上にだけ、その夏の御大祭というのがございます。それはどこまでも、五穀豊穣言うに及ばす商売繁盛、諸事万事万端の上に、大繁盛のおかげを頂こうというのが、その祈念のお祭りが夏の祈願大祭になるわけでございますね。
御大祭の準備はでけた。誰がどういう持場、持場において、こういう御用を頂くことになっておるということがまあ定められた。決められたというだけ。成程御大祭は、それで滞りなくすむかも知れんけれども、銘々の上に、現われてくるところのならおかげというものが、それで頂けるだろうか。肝心、要のものものが欠けておるように思う。今朝から頂いておるお夢はそんなふうに私は思うんです。ね。肝心要のお鏡がとってない。全部小餅にしてしまっておるね。私はとても御大祭を奉仕する前にまあ、せめてまあ、半月間、せめて十五日間くらい自分の心の鏡というものを本気で吹き清め磨き上げるための私は、修行をですさせて頂くということに、欠けておるのではなかろうかと。
皆さんどうでしょうか。そういうような一大祈願祭が、皆の願いを一つにして、そしてそのことを神様にもう、どうでも、こうでも願うその願う心がですね、先程敬神会の方達に申しましたようにです、ただこういう心でお願いしても、神様は聞き止めて下さらないというような心のままで、その祈願祭にいったところで、駄目でしょうが。まあ言うなら、まだ十五日ありますですから、その十五日間をですその本当の祈願祭がです、銘々の心の中から本当に有難い、勿体ない、あいすまないとそういうような心から出てくるところの祈念であり、祈願であって、私は本当の祈願祭の意義が為すのじゃないだろうかと、私はこう思うのです。ね。
共励をするなら、そこんところに焦点を置いて、共励しなければならんのじゃなかろうかとこう思うのです。皆さんの祈念が成就することの為に、私は御大祭を奉仕する。様々な万事万端の上に、それこそ用意おさおさ怠りないところの準備がでけたというて、御大祭がそれですんだというのじゃありません。その御大祭を境にこういうおかげにもなってきたというおかげを受けなければ、神様は喜んじゃ下さいません。
どんなに大祭を麗々しゅう仕えたからというて、神様は喜んで下さるじゃありません。止むに止まれん、真心がですそういうことの形の上に現われて、しかもその大祭を境に、お互いの信心が一段と進み、お互いの信心、祈るところが、成就していくということがです、神様の願いの、成就でもあるわけなのですからね。当然私どもがより一段と、そのための修行を、なさらなければならないということを、今朝からお夢を頂いて、改めてハァなるほどそだなぁ、これは皆だけじゃない。私自身も、あのことでけ、このことの準備がでけた。心に思うておって、心の準備がでけたかとこう、私が詰問されたような気がするのでございます。
皆さんどうぞ、もう十五日間、丸、その丸十五日間をです、いよいよ神様に喜んで頂ける自分達もおかげが受けられる御大祭になるために、本気で改められなかったところを改めさせてもろうて、なるほどここんところが修行不足と思うておったところを、本気でその修行が成就していくようなおかげを頂かなければならんと思うですね。
どうぞ。